プロフィール

修行時代から独立へ

私の人となりが分るように、生い立ちから書かせていただきます。

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川岡寛之 1968年11月13日生まれ

当時は先進技術だった内装屋の長男として産声を上げました。
父は”昭和のガンコ職人”で口数も少なく、不器用ながらも一生懸命働いていました。
そんな父を支える母は、朝から晩まで働きながら家事・育児・父の事務仕事を全て一人でこなしていました。
当然お家は留守がちなので、私はいわゆる鍵っ子でした。
その事が影響してか、当時の私は同級生に比べて自我が目覚めるのも早かったように思います。

そうして10代の後半に差し掛かったころにはすっかり我が強くなっていた私。
一時期少しだけ道を踏み外しました。
今思えば親不孝以外のなにものでもないと思うのですが、感情を上手に表現出来なかった少年は世間に反抗するという形でなければ気持ちを表現できなかったのです。

その後は建築系の高校に入学。
もともと「人と同じは嫌だ」という気持ちが強かった私は独立して内装屋をしている父の背中を見ながら「俺も独立して自分の思うように生きていくぞ」と思うようになっていました。

~かくして私が塗装世界に入ったのは18歳。
広島の大手企業やゼネコンの下請けをしていた塗装会社に入社しました。
その会社は広島市を拠点に戸建住宅の外壁塗装や内部塗装、ビルの塗装、マンションの塗装、店舗、橋梁などの塗装工事の全てを手がけている会社でした。

昔堅気の親方(社長)は口調もキツく、仕事内容もハードだったので大変で、逃げ出そうかと思った事も何度かあったのですが、人情味溢れる親方を慕っていた私はあれこれ葛藤しながらもついて行きました。

当時の見習い職人は、今の時代と違ってなかなか刷毛を持たせてもらえず、「いつまで続くのか」と思うほどの丁稚奉公な日々が続いてました。
しかし、今思えばその下積み(基本)こそが大切だったと思います。

こうして数年間が過ぎた頃、お家一棟丸ごとから高層マンションなどの現場を任される立場にまで成長していました。
段取りに打ち合わせ、職人をまとめて完工していく事が楽しくてたまりませんでした。

しかしそんな日々もつかの間、転機が訪れたのです。
バブルの崩壊後の影響です。

当時、がむしゃらに職人していた私にはバブル崩壊という言葉が一体何なのかすら知りませんでしたが、その言葉の意味が形となって現れてきた時にその意味を自覚したのを覚えています。
現場以外では笑顔が多かった親方なのに、気がつくと眉間にシワを寄せることが多くなっていました。
赤字同然の仕事を請け続けるうちに経営がますます厳しくなっていきましたが、親方は必死に頑張ってしがみついていました。
というか、家族や社員を背負っている親方はしがみつく以外に方法はありませんでした。
「まぁ頑張っていればなんとかなるもんじゃ!」そう言っていつも私たちを励ましてくれていました。

しかし現実は厳しく、親方はやがてがっくりと肩を落としてしまいました。
いつも「ガハハ」と笑っていた親方はいつの間にか笑うことも無くなり、ストレスで痩せ細り、最後には「すまんのぉ・・・」と私たちに頭を下げるようになってしまいました。
悔しがり自分を責める親方の顔が今も脳裏に焼きついています。

こうして私は複雑な気持ちを抱えて塗装業界に独立するという一歩を踏み出したのです。

独立と苦悩の日々

バブル崩壊後の荒野に足を踏み入れた時の私の年齢は24歳。
この業界で24歳といえばまだ小童で30代~50代の方から見れば舐めて見られる存在です。
だから私は舐められないように、独学で勉強して国家資格である建築塗装士の資格を取得しました。
しかし資格を取得したからと言って仕事が舞い込んで来るわけではありません。

営業なんて全く分からなかった私は知り合いの業者に足を運んでは頭を下げて、頂いた仕事をただ一生懸命完工させる事しか出来ませんでした。
元請けから無理な工期を告げられた時は胃炎に悩みながら無理やり間に合わせていました。
誰もが断るような困難な赤字仕事ばかり回された時は悔しくて拳を握りしめた事もありました。
ブローカーまがいの塗装請負会社に約束したお金を払ってもらえず泣き寝入りした時も何度もありました。
買い叩いてくる元請と交渉していい仕事が出来るだけの予算を提示していただいても支払いの時にはなぜか赤字になるような取引きだったりという理不尽な日々を送っていました。

毎月月末になると眉間にしわを寄せる私を見て、「あなたはこんなに頑張ってるのに、なんでなんかね」と涙ぐむ妻の言葉や無邪気な子供の笑顔を見て胸が締め付けられる事が何度もありました。
そしてそのたびに「俺がバカだから、もっと賢かったら」と自分を責めていましたが、いつしか私は孤立してしまいました。
そのうち洗面所の鏡に映る自分の顔にかつての親方の顔が被って見えるようになり初めました。

「このままではマズい・・・」
「まともに工事すると赤字になる価格なんだ。他の業者がやっているように割り切って手抜き工事をしてしまおうか。」
そんな感情が何度も押し寄せてきました。
しかし、実際にそんなことが私に出来るはずがありません。
「頑張っていればきっといいことがある」
そう思ってひたすら歯を食いしばって耐えていました。
知識も甲斐性もない自分が歯がゆくてたまらなかった頃でした。

脱下請け

こうして苦悩が続く毎日を過ごしているうちに第2の転機が訪れたのです。
広島に支店がある大きな会社の二次下請けとして外壁の塗装工事に入った時に施主様とお話した時の事。
「塗装屋さんしっかりやってくださいね。うちはウン百万円のお金を払ってるんだから」
私の様な一下請け業者に工事金額を告げられたお客様にも驚いたのですが、その時私が耳にした金額にも驚きました。
その金額は私が請けた金額の数倍の金額だったのです。

大きな会社と町の塗装店の運営費を考えた時に経費の差が大きくある事は誰でも理解できます。
しかしこれだけの予算があればウチであれば最高級の塗料を使用して最高の仕事が提供できるぞ。
なぜ私は赤字同然で中級レベルの塗料を使用した塗装工事をしているのか。
元請けの言う事を全て信じていた自分がかわいそうに見え、何かが音を立てて崩れていきました。

「私は一体何をやってるんだろう・・・これが私が思い描いていた職人の姿なのだろうか」
「塗装をしてくれるなら誰でもいいという会社に貢献して何の意味があるのだろうか」
「工事金額に見合う仕事と塗料を使ってあげないと施主さんがかわいそうだ」
自社オリジナルを装う塗料缶を見ながらそんな想いが湧き上がってくるようになりました。

そして同時にこんな想いが私の中で強くなっていきました。
施主様とコミュニケーションが取れる施工をしたい
広島という街で「透明で親しみやすく信頼できる塗装会社」を作りたい
「ここに任せれば大丈夫」と言われる塗装店になりたい。
広島という地域に密着して人と人とのつながりを大切に出来る人間になりたい
お客様の想いを形にしてあげられる塗装店になりたい
ステイタスを求める方にはステイタスを語れる塗装工事を提供したい

そして私はついに、この思いを叶えようと動き始めたのです。

現実と喜び

「よし!もうグズグズ悩むのは終わりだ!下請けを辞めてやる!」
私は熱い想いを胸に勢いよく立ち上がりました。
第3の転機です。

とはいえ立ち上がったものの元請け依存しきっていた私に具体的な考えが浮かぶはずがありません。
元請けから仕事を貰うという事がいかに楽な事かだったのだろうかと実感したのはこの時でした。

しかし、やると言ったらなんでもやってきたのが私です。
私は手初めに仲間を募ろうと思い”熱い想い”を同業者に打ち明けることから初めました。

「お前がやるなら俺もやるぞ!」なんて賛同してくれる人も居たのですが、これが現実味を帯びてくると様子は一変。
「みんなそう思っとるけどなかなか難しいんよね」
「行かさず殺さずでも元請けがあるから生活出来てるんよ。それを切るなんて出来るわけ無いよ」
「無茶よ、家族も居るんだから」
「夢はあるけど仕事が切れたらどうするん」
「バクチじゃないんだから」
「今更そんな馬力はないよ実際」

私の思いに共感してくれる人は居たのですが、今の環境を捨てて腰を上げる人は一人も居ませんでした。

当然と言えば当然です。
しかし私は現状に甘んじたり流されるのが大嫌いな性格。
煮えたぎる想いに火が付いていた私は、たった一人で行動を始めました。

手始めにあちこちの団地に赴いて玄関のチャイムを押して回っていました。
もちろん訪問営業なんてした事ありませんし営業の「えの字」も知らない私です。
連日玄関のチャイムを押しまくっていましたが、思いとは裏腹にほどんどのお宅が留守にされているか、
在宅でもインターホンごしに断られる事が続きました。

「うちはもう頼むところは決まってますから結構です!」
「あー、そういうのはいいですごめんなさい」
「今忙しいので」

玄関のチャイムを押せば訪問販売業者だと思われて邪険にされる。
どうすれば私の熱意が皆さんに伝わるのだろうか?
必死に考えたのですが、いくら考えても職人の私は地道な努力をするしかありませんでした。
「営業経験のない私ではやっぱりダメなのかな・・・」
悩みを相談する相手もなく教えてくれる上司もいない中、出来る事だけを一生懸命するしかありませんでした。
しかしそのストレスはなかなかのもので、やがて玄関のチャイムを押すのが嫌になりはじめたのです。
団地を回っているだけで「一応仕事をしているぞ」と思うようになり、チャイムを押す度に「ここも留守であってほしい!」と願うような変な心境に陥ってしまい、やがて営業活動自体がおっくうになりはじめました。

半分惰性で営業活動をしていたある日、過去に名刺を受け取って頂いた方から私宛に一本の電話がありました。
「川岡さんですか?外壁塗装の見積もりをして欲しいんですけど、ちょっと見てもらえますか」

感情的に落ち込んでいた私はそのお電話が何の事か理解できなくて、理解した時には電話を握る手が緊張でブルブルと震えた事を覚えています。

“つ、ついに見積もり依頼が来た!!”

「お見積もりですね!それではえーっと、いい、いつお伺いしましょうか!」
喉がカラカラになった事も今となっては忘れる事が出来ない思い出です。

しかしこの様な事はやはり稀で後に続きません。
工務店や同業者、あるいは不動産業者の方に仕事を頂きながら時間を見つけてはまたお宅訪問をするというスタイルで頑張っていました。
しかしそれもずっと続くわけではない。
次第に元請けを切った事による反動が形になって見えてきたのです。
個人塗装店と資本のある企業が持つポテンシャルとの差を痛感した時でした。

しかし抗ったところで私が街の塗装屋さんである事に変わりはありません。
町の塗装店なりに手作りのチラシを配布したり、マニュアル本を読みながら自作でホームページを作ったりしました。
独学で試行錯誤しているうちに少しずつではありますが、時々チラシを見て下さってた方からお電話を頂いたり、
ホームページを見た方から問い合わせのお電話を頂くようになってきました。

そのうちに雪が舞う冬にチラシを配布している私の事を知った男が
「川岡さん、全部一人でやってたら限界があるでしょう」
と言ってボランティアでチラシ配布を手伝ってくれるようになりました。
そして想いが想いを呼んで、一人また一人と仲間が増え始めました。

その波紋(リプル)によって知恵を貸してくれる企業や紹介によって様々な専門家とも知り合う事が出来ました。
みんな宝物です。

現在~夢に向かって

脱下請けを誓い、自宅兼事務所で開始したリプルクリエイトはやがて友人の店舗の1部屋を借りしてお客様との商談などをさせて頂けるようになりました。

小さいながらも大手企業に負けないトラブルにも対応出来る保険制度やシステムなども充実させました。
お問い合わせも次第に増え初めたので知人店舗を出て小さな事務所を設営しました。

やがて国内の有名各塗料メーカー様も足を運んで下さるようになり、各銀行様が足を運んで下さるようになりました。

そして2015年春、気軽に来て頂けるショールームタイプのお店をメイン通りに構えるに至りました。

現在元請け率90%の会社となって、よりお客様との距離が近い会社になっておりますが、今後は広報にも力を入れて地域の方に対しての知名度をもっと高めて、この街広島に外壁塗装による笑顔の波紋(リプル)広げる活動を広げて行きたい所存です。

奢ることなく着実に一歩一歩正しい道を歩いているリプルクリエイトです。

乱文ではありますが、私とリプルクリエイトの仲間たちの歩みを少しでもご理解いただけたら幸いです。

私ごときのプロフィールをここまで読んでくださった優しい貴方。
そんな優しい貴方のことが私は好きです。
是非一度お逢いしましょう!

それではまた。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

川岡です