代表川岡の自己紹介のページ – 広島で外壁塗装・屋根塗装するなら信頼のリプルクリエイトへおまかせください!

親方、川岡寛之のプロフィール

初めまして。リプルクリエイトの川岡寛之です。
リプルクリエイトは3004年6月に立ち上げた会社になります。
その前身である真誠建装は今から28年前の1993年に立ち上げました。
私たちは、塗装工事が完了したときにお客様から「やっぱりここに頼んで良かった!」と思っていただけることを使命として日々努力しています。

私がそんな風に思うのは、良くも悪くも長年に渡って塗装業界を見てきたということもあります。
ここに至るまでの要因には、私の生い立ちによる影響もございます。

少し長くなりますが簡単な自己紹介をします

【生い立ち】

私は厳格な職人気質の父親に、一家の長として、厳しく育てられていたのですが、そのことがあとから私を独立に駆り立てるきっかけになりましたので、少しだけ聞いてください。

私の父は職人だったこともあって、とても厳しいひとでした。
男気があり責任感も強かったのですが、それをそのまま私の教育に当てはめているという感じでした。

しかしそんな父の血を受け継いだ私がいつまでも大人しく従っているわけがなく、中学生に上がったころから父の言うことにことごとく反発するようになっていきました。
やがてその感情は、私の人生感にまで影響を与えるほどになっていったのです。

「俺の人生は俺のものだ!誰の指図も受けない!」

親に世話になっておきながら誰の指図も受けないなんてすっとぼけたことを言う、勘違い少年になってしまったのです。

【人生の転機の訪れ】
そんな勘違い少年が17歳になったある日いつものように父と言い争っていると、二人の関係を見かねた母が、私に対して祖母の家に一時期移り住むことを提案してくれたのです。
「あなたたちは一回離れたほうがいい」
そして、そこで出会った人が私の人生を大きく変えることになったのです。

とある日の夕方、近所の店でお好み焼きを食べていた時のこと。
あつあつのお好み焼きを頬張る私の目の前に、ペンキが付いたニッカポッカをバッサバッサとさせながら歩く職人の姿が目に飛び込んできたのです。

「おばちゃん!おこのみダブルね!」

私は頭をハリセンで思い切りバーン!と叩かれたような衝撃を受けたのです。
「なんかわからんけど、とにかくすげぇカッコイイ!!」
首にタオルをかけて幅広のニッカポッカを履いた男が、股を広げてお好み焼きを食べているだけの姿を眺めながら思ったのです。

「決めた!俺は職人になる!!」

思ったら即行動の私は家に帰って両親にこう言ったのです。

「俺、職人になる」

突然そんなことを言われた母親は泣き崩れ、父親は冷静でした。
「まぁ、、、お前の人生じゃ。お前の好きに生きたらええ。じゃが後悔はするなよ」

そうして私は塗装職人の世界に足を踏み入れたのでした。

 

【仕事にかける父の思い】

塗装屋に入る前に少しだけ父の仕事を手伝っていた時期がありました。
なにかにつけてうるさい父と一緒に仕事なんて本当はやりたくなかったのですが、職人である父が毎日見ている職人の世界を知りたかったのです。

現場での父は家にいる時よりもさらに厳しい男でした。
「なにやっとんじゃ!しっかりやれ!」「お前はもうええ!帰れ!」

まるで鬼教官のような父に嫌気がさして数か月で離れてしまったのですが、仕事中に父が言った言葉の中で今でも覚えていることがあります。
「わしらぁ職人はお客様あってなんぼの存在じゃ。お客さんが悲しむような仕事をする奴は職人じゃぁない」

【見習い職人から独立へ】

かくして私は塗装屋の門を叩いたのです。

 

いきなり社会の、それも職人の世界に飛び込んだ私は、見るもの全てが初めてのことばかりで大変だったのですが、持ち前の反骨心を発揮してどんどん技術を習得していきました。
「親方、もっともっと僕に技術を教えてください」
見習いから5年目になるころには先輩職人に指示をするほどになり、現場監督とも対等に打ち合わせが出来るまでに成長していました。

しかし、そんな風に指示する私に苛立ちを感じていた先輩から、押さえつけられることも増えてきました。

「お前、先輩を差し置いてなにやりよんなら。調子に乗るのもええかげんにせいよ」

日頃から会社に貢献できるように頑張っていた私にとって、この言葉に絶望を感じたのです。
「俺はここに居てはいけない人間だ」

そうして独立したのが24歳の時でした。
私は塗装しかできない人間なので、がむしゃらに働くことしかできませんでした。
朝7時には現場に行って、毎日真っ暗になるまで馬車馬のように働きました。

当時の自分を思い返すと、頭がおかしいのではないかと思うほど働いていたのですが、そんな私に目を付けてくれた塗装屋の社長に声をかけていただいて、その人の下で工事を請けさせてもらうことになったのです。

 

それから私は今までに輪をかけて仕事を頑張るようになりました。
仲間を増やしてどんどん仕事を請けて、妻まで現場に駆り出すほどノリに乗っていたのです。

しかしほどなくして、様子が変わってきました。
死ぬほど頑張っているのに月末になると妻の顔色が変わるようになってきたです。

「最初は良かったけど、最近お金が残らないよ。あんなに頑張っとるのになんで毎月赤字になるん?一切無駄遣いもしてないのに」
月末になると不機嫌の顔をして愚痴を言ってくる妻に、改善できない自分の不甲斐なさから感情をぶつけるようになりました。

「俺が悪いの?こんだけがんばっとるんじゃけー絶対にうまくいくから。今にみとけって!」

しかし、そんな思いとは裏腹に赤字はどんどんかさんで、職人仲間に給料を払ったら自分の分が残らなくなってきたのです。

「このままじゃまずい。借金が増える」

そうこうしているうちに私に仕事をくれていた社長が突然いなくなってしまいました。

「おい川岡!おおごとじゃ!あのバカ飛びやがった!」

同じ下請け仲間からかかってきた電話を聞いた私はその会社に飛んで行ったのですが、数名の職人が集まっているだけで事務所は漫画みたいにもぬけの殻でした。

「マジかよ、、、、」

当時の私は先で報われることを信じて赤字分を借金で埋めていたのですが、返すあてがなくなり自暴自棄になってしまったのです。
信じていたがむしゃらな努力がマイナスの結果を招いたことを罪に感じた私は抜け殻のようになってしまいました。

大きな工事は失敗するとデカいからという理由で一切やらなくなり、小工事や住宅塗装ばかりするようになりました。
馬車馬時代のガッツを失ってしまった私は、激安であろうと孫請けであろうと惰性で仕事をするようになりました。

 

請けていた工事は基本敵に赤字か、赤字ギリギリの予算なので、いかに早く工事を終わらせるかという事ばかり考えて仕事をしていました。
当然のように休憩もせずに作業をしていたのですが、お客様はそんな私を労ってお茶菓子まで出してくれるのです。

「暑いでしょう?お茶でも飲んでくださいな」
「寒いのに大変ねぇ、コーヒーでもいかが?」

そんなある日、私は元請けばかり儲けて、お客様や職人が損をしているとう事実を知ることになったのです。

 

このころから私は、住宅塗装工事の構図が間違っていると思うようになりはじめたのです。
業界全体を見てみると、多くの職人が自分と同じような仕事のやり方をしているだけではなく、当たり前のしょうに手抜き工事をしている。
それどころか、手抜きの技術を仲間同士で共有しあっている職人までいたのです。

 

そんな中でふと、父が言っていたた言葉を思い出したのです。

「お客さんが悲しむような仕事をする奴は職人じゃぁない」

この時私は初めて父の言っていたことを認めたのでした。

 

そして私は父に何も言い返せない自分が情けなくなって、下請けをどんどん辞めていったのです。

 

そしてこの業界を塗り替えてやろうと色々動きましたが、結局長いこと続いている仕組みを変えることは出来ませんでした。
その結果、私たちはリプルクリエイトに工事を依頼してくださるお客様を必ず幸せにするという使命をもって仕事をすることに徹底し始めました。

 

あれから10年、私たちは地域のメイン道路にお店を構えるまでに成長しました。
当時とまったく変わらない新年をもって今日も頑張っています。
そんな私には夢があります。

「広島で塗装と言えばリプルに頼めば間違いない」 と言われるようになって100年続く会社にするという夢です。

100年計画の夢なので私はもうこの世に居ないかもしれません。
でも恐らく、今のリーダー職人たちならその夢を受け継いで叶えてくれると信じています。
がむしゃら青年だった私もいつのもにか50代になりましたが、まだまだこれからです。

夢を叶えるべく、これからも同じ意思を持つ若い仲間と共に頑張っていきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

   

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